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かめの家 ~みんなちがって、それでいい~

心友。かけがえのない存在。この一生の中でお互いにそう呼び合える存在が一人でも居てくれること。いつも逢えるわけではなくても、存在自体が勇気をくれる人。

私にもそう呼べる人がいます。彼女が今大きな一歩を仲間と踏み出したことを知り、この場所でお伝えさせて頂こうと思いこうして綴り始めています。長くなってしまいますが、彼女との出逢いから書かせて頂こうと思います。

 

出逢いは25年前の姫路での国際交流会でした。当時姫路城が世界遺産に登録された頃で、姫路に住む外国人が姫路城前の広場に屋台を出し各国の文化交流を行うというイベントがありました。

私は、母方の祖父母の家がマレーシアからの国費留学生の受け入れの世話をしていた事もあり、祖父母宅に滞在し家族のような関係であったマレーシア人の友人がいました。そのマレーシアの友人が姫路の大学に入学した為、そのご縁で国際交流会のイベントの手伝いをすることになりました。そこで出逢ったのが姫路出身のAちゃんでした。Aちゃんはお母様が国際交流のボランティア活動をされておられ、そのお手伝いで配属されたのがマレーシアのグループでした。私達の屋台はマレーシア料理のサテーという焼き鳥を作る事になりました。前日から皆で集まり、買い物から仕込みをする時に初めてAちゃんに出逢いました。学生が多かった中、Aちゃんが同い年だとわかり意気投合。イベントが終わってからも、手紙をやり取りしたり(当時はインターネットはなく、メールもありません)2人でどこかに出かけたり…。不思議なのですが、選ぶ服の雰囲気もよく似ていて、お互いに出逢った事は偶然ではなく出逢うことになっていたのだと何度も初めから感じていました。

 

その頃の私は、青春18切符で鈍行列車に乗って、日本中を一人旅をするのが好きだったのですが、一度Aちゃんを半ば強引にその旅に引き入れた事がありました。大阪なんばで待ち合わせ、夜行バスで仙台まで行き、そこから青函トンネルを抜けて北海道へ。

北海道を巡る予定だったのが、函館で台風後で橋が流されてしまったとの事で札幌へ行けず。その晩は急遽函館で泊まり、その晩に旅の計画を練り直し(というか、いつも行き当たりばっ旅(笑))北海道は断念して岩手の方に下ってくる事にしました。岩手から仙台へ…途中北上川のイギリス海岸で寝転んでみたり、途中で道が無くなって道なき道をトボトボ歩いたり…何時間もかかって歩いてみたのに、帰りは電車で戻ったら10分もかからなかったということも。今でも鮮明に憶えている大笑いばかりの懐かしい想い出が一杯の旅でした。最後仙台では疲れ切って少し喧嘩もしたのだったかな…20代半ばだったと思いますが、化粧もせず歩き回った東北の地はただただ懐かしい想い出の中にあります。

 

私は当時まだ、社会に出たばかりに就職した会社で働いていて、仕事のストレスの発散を旅でしていた頃でした。

同時に大学にも通っていた頃で、詩画を綴るのが日課にもなり始めていた頃です。いつ寝ていたのだろうかと不思議に思うくらい、ただただ若さってすごいなと今改めて思います。

 

その少し後位から、小さな展覧会に私が絵を出品するようになり、入選したり入賞したりする度にAちゃんも必ず観に来て下さって一緒に喜んでくれていました。

 

そんなAちゃんもとうとう、結婚することになり、その告白のお手紙をもらった私は何故か号泣…その後二人で冬の高野山の宿坊へ旅をしました。言葉が少なくても伝わる事があるのだと、感じる旅でした。ちょうどAちゃんの結婚式のすぐ後に、初めての展覧会を開く事が決まっていた私はお祝いの絵を個展でサプライズで展示。観に来てくれたAちゃんにプレゼントしました。その絵がForever Loveというこの亀の絵でした。

この時に、彼女に約束した事がありました。いつか子供が生まれたら子亀ちゃんを描き入れること。

そしてその翌年女の子が生まれました。名前は字が違いますがYukiちゃん。

子亀を描き入れるかどうか考えていましたが、いつか独立した時に連れて行ってもらえるように子亀は別で描く事にしました。

その年にあった個展で、又々サプライズで会場で飾っていた子亀ちゃん。Aちゃんが数か月のYukiちゃんを抱っこしてご主人と来てくれ、子亀ちゃんに気付いたAちゃんは泣いて喜んでくれました。

Aちゃんは姫路から私の実家のある宝塚沿線に越してくることになり、何度も私が彼女の家に足を運びチビYukiちゃんとも遊びました。

 

この絵がYukiちゃんに描いた子亀ちゃんです。

それから数年後、又Aちゃんのお腹に新しい命が宿りました。

丁度私が伴侶と出逢い、結婚を意識し始めた頃でAちゃんにも色々話をしていました。

結婚の手続きが終わり手紙で伝えたのだと思いますが、そろそろ赤ちゃんが生まれる頃だろうなという時でした。私は呑気にどんな子亀ちゃんを描いてあげようかなと思っていました。

 

ある時、留守電にAちゃんからの電話が入っていました。

生まれた赤ちゃんのARIちゃんの心臓に障がいがあって生まれたその日に手術をした事。まだどうなるかわからないこと…壊れそうな状態のAちゃんが目に浮かぶようなそんな声でした。

ただ祈る事しか出来ない日々でした。

 

その祈りの中で描いた子亀ちゃん。

生まれたばかりで必死で生きようと頑張っているARIちゃんにエネルギーが届くようなそんな絵を描こう…そう思い、描き始めたのは生まれたての子亀を囲む亀のファミリーでした。

絵の中で皆繋がってエネルギーを送り続ける事が出来るなら、その祈りのエネルギーはきっと現実世界にも届けられるはずだと信じ、祈りを込めて描いていました。

亀の尾っぽが長いのは長寿のシンボル。生き永らえる事が出来るエネルギーを込めていました。戦いの石と呼ばれ旅人を守ると言われるターコイズも絵の中に…

 

長い間入院生活があり、ご主人やご実家の家族も皆さんサポートに回られてAちゃんとARIちゃんを支えておられました。

退院してからも、循環が悪くなると紫色になってきてしまうからマッサージが必要であったり、いつでも病院に飛んで行けるようにと準備されていたのを憶えています。

先日の大掃除でもその当時のお手紙もたくさん出て来ました。時にはAちゃんの今は亡きお父様からのお便りもありました。

大きな手術を何度も乗り越えられ、ようやく箕面に戻って来られました。

その後ARIちゃんは3歳を迎える頃に自閉症と診断され、そこからAちゃんはご家族と共にたくさんの事を乗り越えられて来ました。無理をしすぎ頑張りすぎて体調を壊してしまった事も…

そんな中でも私が出産をした翌々日には生まれたばかりの息子に逢いに駆けつけてくれたりもしました。慣れない子育ての中でしばらくなかなか逢えない事が続いた時期もありましたが、箕面の地で同じような子供さんを持つ親御さん達でNPOホープビジョン(現一般社団法人ホープビジョン)というグループを立ち上げられ、子供達と畑を耕し大豆を育て、自分達の手で収穫したものを納豆にして販売するという活動を通し、子供達が将来のびのびと生きてゆけるようにと地域に溶け込み根を下ろした活動を始めていました。

 

2カ月前に頂いた連絡で、自然に囲まれた豊能町にかめの家という障害福祉サービス事業所を開所されたという嬉しいニュースがありました。きっとここに来るまで数えきれないたくさんの事を乗り越えて来られたのだと思います。

そこから、今後の活動を広げてゆく為に必要な資金を募る為、現在クラウドファンデイングを展開されています。

寄付はふるさと納税として処理されますので、ふるさと納税をお考えの方、この活動に賛同される方はぜひご協力頂ければ嬉しく思います。

クラウドファンディングは9月 末までとなりますので宜しくお願い致します。

 

私も”かめの家”へ新しい始まりへの御祝の気持ちを込めて何枚かの絵を寄贈させて頂く予定でおります。1枚は今から描くかめの家。

Aちゃん達が作った素敵なかめの家。原動力はただただ愛なのだと思います。Aちゃんとの出逢いから3枚の亀の絵がもっと大きな亀の絵に繋がってゆくこと。かけがえのない心友の傍にいる事で、かけがえのない瞬間を共有出来る事。生きる希望というのはそんな中から生まれてくるのではないかと思っています。

これからこの自分の手が出来る支援を相談しながら進めてゆきたいと心新たに思っています。

 

”みんなちがってそれでいい。

ホープビジョンのHPの中にこんな素敵な言葉を見つけました。

一人一人の違いを受け入れ認め合えることがあれば安心して生きてゆくことが出来る…

 

これからますます人と人との繋がりが大切になってゆく時代であると思います。

その中で個々を生かし合ってゆくというのが何より大切な事なのだと感じています。

 

https://www.furusato-tax.jp/gcf/1294

 

(以下 クラウドファンディングHPより抜粋)

<きっかけは障がい者の方々からの教え「すべての人に働く喜びを」>

 

ある時、障がいをもつ子がお手伝いをしてくれた時に「お金ちょうだい」と言ったんです。その言葉を聞いたとき、働いたらお金が貰える仕組みを理解していることに驚きました。それから他の保護者の方ともお話していく中で、彼らの賃金が健常者では考えられないほど安いことを知ったんです。

 

「障がい者年金もあるし、これくらいでも仕方ない」という声もあるんですが、働いた対価として平等に報酬を得る。その喜びは障害の有無は関係なく誰でもみんな公平であるべきだと考えるようになり、障がい者が楽しく活動、労働の場(特に農業ができる場)を探し求めるようになりました。

 

人の縁とは素晴らしいもので、探していた場所が見つかると同時に同志も集まりました。更に、その場所は探し求めていたものよりも数倍素晴らしい所で、たくさんのご縁によりここに辿り着けたことに感謝しています。

 

恩返しの意も含め、障がい者のみならず地域の方々、高齢者などあらゆる人を対象にプロジェクトを立ち上げることを決意しました。ひと・場所・時代をマッチングさせた、豊能町ならではの『みんなのふるさと創造「農・福・観・高」プロジェクト』の幕開けです!

 

まずは、「農福連携」による6次化産業です。私たちの農園で、18歳以上の障がいをもつ人たちに楽しく働くという事を農業を通じて五感で感じてもらいます。大豆栽培オーナー制度を導入し、オリジナル納豆、味噌、漬物へと商品化、畑の横にて直売所を設置し、販売を行います。

そして、その次が「観光事業」。近年、「近しい田舎」として徐々に観光客が増加してき豊能町は、新型コロナの影響もあり、密を避けられるスポットとして観光客が激増しています。訪れた観光客は口を揃えて「良いところね、また来るね」と言ってくれます。

そこで、これからの豊能町を支えていく「観光」にスポットを当て、観光地としての受入態勢を整えていきます。季節野菜の栽培・収穫体験の提供といった観光農業も運営し、移動販売車(キッチンカー)にて、収穫した野菜やそれを使用したお弁当、みそ汁などを販売します。

 

最後に輝くのは、豊能町の多くを占める高齢者です。彼ら・彼女らは非常に元気な「アクティブシニア」。人と接する事のできる憩いのスポットでこそ、輝きます。

 

 

我々の取組が「あそこに行けば誰かいる」と言った憩いの存在になり、「年の功の知識」を頂きながら障がい者と連携、畑のサポーターなど、更に元気なアクティブシニアであり続けていただき、地域活性へと繋げます。

 

<皆様へメッセージ>

 

現代において、自分にとっての「ふるさと」と思える場所がないという人は多いのではないでしょうか。

 

豊能町外から来る観光客などから、「この場所に魅力を感じ、ここに住みたい」と言う声をたくさん聞きます。誰もが自分の「ふるさと」のように気軽に来ることができ、いつまでも憧れの存在となる、「住んでみたい町」へと変わっていきたいです。「ふるさと」のある方もない方も、一緒に創っていきませんか。

 

今回のプロジェクトでは、豊能町を舞台に老若男女、健常者障がい者問わずあらゆる人たちが繋がり、みんなにとっての「ふるさと」を一緒に創り上げます。その過程で「豊能町の良さ」に気付いてもらい、リモートが主となりつつある現在、「人の繋がりの温かさ」を実感でき、少しでもみんなの心が温かくなればと心から願っています。